技能と資質
産業コーチは、パーソンセンタードコーチングに基づく成長支援を提供していくにあたり、次の6つの「技能と資質」を最低限の必要な要素としています。
ここでの「感情の伝え返し」とは、簡単に説明すると、クライエントから伝えられる内容に基づいて、クライエントの意識にのぼっている認識や感情を、産業コーチが明確に表現することを指します。
これを繰り返すことにより、クライエントが内面に抱える混乱や心理的苦痛などを、産業コーチとの関係性の中で共通認識とすることで、一時的に外部に出します。これを「脱同一化」といい、自分の知覚内容を落ち着きを持って眺められる状況が作られ、とらわれのない内省がしやすくなります。
また、産業コーチに理解されたと知覚することができた場合、2つの心理的作用が起きます。
一つは、心理的苦痛が緩和される「情動的サポート」という体験です。
もう一つが、「被受容感の高まり」と呼ばれる心理的現象で、自分という存在のまとまり感や、自己肯定感が高まることに関係します。
このような作用を伴うことで、とらわれのない内省を行いやすくしていきます。
クライエントから伝えられる内容に基づいて、感情の伝え返しをするプロセスの中で、産業コーチはいくつかの心理的な能力を活用することになります。
クライエントの意識にのぼっていることを、他者である産業コーチが理解するにあたり、修正を前提とした仮説を、絶えず作っていくことになります。
このクライエントが感じていることについて仮説を立てる時に、活発になる心理的能力を「メンタライジング」といいます。
ここでのメンタライジングの意味を簡単に説明すると「産業コーチが自分の心を利用して、クライエントの心を理解しようと試行錯誤でシミュレーションすること」を指します。つまり、クライエントが今ここで伝えていることは、心でどのような体験をしているからなのかを知ろうと想像を働かせることを、ここでは「メンタライジング」と呼んでいます。
そして、想像した内容を仮説としてわきまえたまま、その内容に感情移入します。このように心理的に体験することを「共感的同一化」と呼びます。
この体験内容から生じる感情を、確認のために伝え返していくことで、クライエントが理解してもらえたと思える表現であれば、産業コーチとクライエントとの間で、共通認識が形成され「共感的理解」に至ったということができます。
この「メンタライジング」で行う想像についての注意点として、今ここでクライエントが知覚していること以外のことを、想像の対象としていないというのがあります。
それは、クライエントが次々に内面に起きることを、産業コーチとの共通理解としていけることで、クライエントが自分の反応に対してとらわれなく内省する、というプロセスに重きを置いているからです。そのため「今、ここ」ということを大切にセッション提供をしています。
産業コーチは、訓練や日々の研鑽を通して、こまやかな自己理解をしています。神経生理学的反応も含めた自己理解によって、自身の心理面で感じてはいけないことを絶えず少なくしていることから、意識しないようにするための否認や防衛的反応が、ある程度起きない状態になっています。
その状態でセッション提供を行うので、批判や評価をする必要性も起きず、クライエントが知覚している内容を事実として、可能な限りそのまま受け取って理解することに、自然と集中していけます。
また、遺伝子レベルでこの世にたった一人しかいない存在である目の前のクライエントが、何をどのように体験しているのかは、まったく未知のものであることを、自らの自己理解の体験によってよく認識しています。そして、そこについて知ることができる唯一の機会が、セッション提供の時間であることから、そこを純粋な動機として、クライエントに肯定的な関心をよせます。
この動機から、些細なことであっても学ぶように丁寧に理解を進める姿勢となります。この様子は、受容的態度や尊重する姿勢として、クライエント側の体験として感じられることがあります。
人間は、他者が伝える内容が刺激となって、自らの中で感じてはいけないことになっている未解決の反応が、意識にのぼりそうになるのを、咄嗟に防ごうとする機能があります。それを否認や防衛的反応といいます。
感じてはいけないことになっている未解決の反応とは、過去に他者の反応から感じたことに基づいて作られた概念が、神経レベルの情報伝達として起きている自分の反応と矛盾してしまう場合、社会生活を生きるために概念の方を優先し、その矛盾になる自分の反応を、意識にのぼらせないようにすることから生じます。
意識にのぼらせてしまった場合、社会生活を営むために不可欠な概念体系が崩壊してしまう脅威にさらされ、生きていけないという破壊的な不安感に苛まれることになります。
こうした事態に陥らないために、概念体系の秩序を守ることを目的とした、否認や防衛的反応が自律神経の働きを伴って咄嗟に働きます。
具体的には、未解決の反応が意識にのぼってしまうような刺激を、他者が出してくる可能性があると認識し、他者を脅威の存在として感じます。さらに、脅威のレベルを下げるために、「交感神経」の動きのある防衛反応が優位になります。それは、他者に対し一方的な決めつけをして相手をコントロールしようとしたり、批難する行動で脅威のレベルを下げようとします。他にも、相手の発言をないものとして扱うために、無視したり拒絶する行動もあります。
こうした動きのある防衛での対処が困難な状況では、「副交感神経の背側迷走神経複合体」からくる思考停止状態が優位になり、脅威レベルを必要以上に高めるのを避けて、過ぎ去るのを待つ目的が選択されます。
このようにして、心の秩序を守るために、咄嗟にできることを行うのが、否認や防衛的反応の役割となっています。
産業コーチは訓練や日々の研鑽を通して、未解決になっている矛盾を解消し、自分の反応と一致する概念を増やしています。
自分のあるがままの反応と概念が一致していることを「自己一致」と呼びますが、これによって、感じてはいけない内容が少なくなっていることから、クライエントから伝えられる内容を批判したり、拒絶することもなく、そのまま受け取ることができるようになっています。
また、この自己一致の心理状態は、内面の脅威が少ない分、他者を含めた周囲のことを認めやすくなり、適切に把握することがしやすくなっています。そのことから、比較的他者との関係調整が行いやすく、対人関係を良好なものにしていける傾向があります。
このことからも、自己一致は、クライエントとの信頼関係を築く上で、重要な資質ということができます。
内省には、大きく分けて2つの種類があります。それは他者へのメンタライジングと自分へのメンタライジングです。簡単にいえば、他者について思いを巡らせる内省と、自分のことについて思いを巡らせる内省です。
これらの内省は、デフォルト・モードネットワークという脳の活動領域が、同じように働いています。しかし、自分と他者を混合するのではなく、客観的な視点の働きを介して、自分と他者それぞれについて機能します。この自分と他者を分けて捉えられる心理状態を自他分離といい、自分は自分であり他者は他者であると、自然と認めた上で内省することができます。そこからなされる他者理解を「認知的共感」と呼びます。
ちなみに、自分と他者の区別なく共感することを「情動的共感」といいますが、この働きを作る脳の活動領域は、デフォルトモードネットワークとは別の「ミラーニューロン・ネットワーク」が担います。このミラーニューロン・ネットワークによる情動的共感は、自分も同じであると認識する際に起きる類の共感です。
セッション提供をする場合は、クライエントが自分オリジナルの反応を見つめやすくすることに重きが置かれているため、産業コーチは自他分離を前提としたデフォルト・モード・ネットワークによる他者理解に努めます。
このデフォルト・モード・ネットワークは、うまく機能しなくなる時があります。それは、自分の内面ではなく外にあることに目的意識を強く持って何かに取り組もうとする時や、脅威を感じて防衛的反応が優位になっている時です。つまり、デフォルト・モード・ネットワークをうまく機能させるためには、ある程度の落ち着きが必要になるといえます。
そのため、産業コーチは訓練の中で、自分について内省を深めて自己一致が進んだ分、自分は自分であるという自他分離を増やし、同時に感じてはいけない脅威が少なくなることから、心理的な安定感を養っています。
このようにして、産業コーチはデフォルト・モード・ネットワークに必要な資質をもって、クライエントに対し、思いを巡らせる内省力を発揮していくことを可能にしています。
「5.内省力」で、他者の存在を認めたうえで共感的に思いを巡らせる時に、デフォルト・モード・ネットワークが活性化することをみてきましたが、実はデフォルト・モード・ネットワークだけではなく、別の脳のネットワークも必要になっています。それは「エグゼクティブ・ネットワーク」といい、主に自分以外のことについて目的意識を持って取り組もうとする際に、注意を意識していることに集中させる役割があります。
この注意を意識していることに向けるためのエグゼクティブ・ネットワークと、思いを巡らせるためのデフォルト・モード・ネットワークの2つが協働的に作用し合って、初めて客観的でとらわれのない内省が可能になります。
このデフォルト・モード・ネットワークとエグゼクティブ・ネットワークの両方の働きを高めるトレーニングに「マインドフルネストレーニング」があります。
マインドフルネスとは、自分の中で絶えず変化している“今ここ”の感覚や感情、思考などに意識的に注意を集中して、あるがままにとらわれなく受け入れている状態を指しています。
このトレーニングでは、集中のしやすい状態を作るために、まず身体感覚に意識を向けることが大切になっています。これを「注意制御」といいます。注意制御がいつでもできる状況を作っていくことで、必要な時にマインドフルネスの状態に至り、建設的な内省や共感を行えるようになります。
そして、このマインドフルネストレーニングは、バーンアウト予防にも役立っています。ここでのバーンアウトとは、クライエントから受けたストレスによって、うつ状態となり、防衛のためにクライエントに対して拒絶や批判的になったり、身体面の不調としてストレス反応が顕著にでることを指しています。
いつでもマインドフルネスの状態になれることによって、バーンアウトになる前に、ストレスをしっかりと自分の反応として認め、心理的苦痛を緩和させていくことができます。
このような技能を訓練の中で高めていることから、産業コーチは専門的な役割を、持続的に提供する責任を果たしていくことができます。
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